勉強は「理解できるもの6割」くらいのものに取り組むのが丁度良いとされているのは僕の中で「へぇ~。確かにそうかも」と実態をよく表していたので強く印象に残っています。しかし、「他人に合わせる」ような場面では‥?これは「勉強」なのか「娯楽」なのか‥?
20代になるまで僕はカラオケボックスというものに行くことが無かったのですが、学生〜新卒1年目くらいにかけて結構頻繁に行くようになりました。そこでレパートリーとして色々加えた動機は間違いなく「人に合わせる」でしたが、その中には今もなお歌っておりもはや自分の「好き」の一つだ、と考えるに至ったものもあります。
さて。「なんかよくわからんことばかり言ってるな〜。“合わせに来てる”らしいけどことごとく芯を外すこの感じ、いわゆるズラシテクニックかな‥」と思ってたような人も、長く観測しているうちに「よっ!待ってました!その“いつもの”を聴くために生きているッ!!」と「知っていること」に置き換わってきた。その上でまだ未知が続いている‥。果てしないね、世界って‥。いや、「人間」って‥。
「6割の理解」って、単語の意味だけなのか。それとも、どこまでの話か明確ではない“本質”の6割なのか。角度なら180°若干プラマイが上限かもしれない。人間の限度も存在するかもしれない。でも心の採点基準に上限はないし、万一「ピッタリ合った」その瞬間、存在し得ないはずの永遠を手にしていると言えるのかもしれません。
僕の方が合いに行ったのかもしれない、もはや。だからこそ未知が悔しく、学びに駆り立ててしまうのでしょう。
僕の勉強はまだ終わりではない‥。このくりかえしのスパイラルを突破したいのは、さらなる未知をめざしていくためだッ‥!
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