最高にクールな方が嬉しい人もいるじゃないですか‥!

「陰キャは優しい論は誤り。自己保身のための言動が柔らかく映ることが在るだけ、自己中で性格悪い」という説を見ました。まあ見える事象だけから判断すればそうだろうなとは思う。

厳密に言えば、陽キャ風の優しさと陰キャ風の優しさって流儀が違うので、お互いにすれ違っていることが多いんですよね。「皆で食べる“温かい”食事より、一人で冷やご飯食べている方が幸せ」って人一定数いるじゃないですか。猫舌考慮したか‥?

陰キャは「一人の時間を与える」は優しさと認識するが、陽キャの中には「それは加害だ」と認識する層が一定数いるし、その埋まらない溝こそ性質の違いであると感じます。

が、「陽キャになりたい陰キャ」という、陽キャもどき&陰キャのなり損ないみたいな層もいてこやつらも自称は“陰キャ”だからややこしい。こうなると多数派は“陽キャ”であり、「陽キャが理解できる優しさ、陽キャを“上位互換”とする層が求める優しさ」を提供するのが良しとされ、「多数派のお作法」で通じ合うものに物申さなければならない真陰は「身の危険を感じる機会が多い」となる。

自己保身が醜いことまで否定しません。しかし誰だって辛い状況に遭遇したとき自己保身くらいするし、受け入れる容量の大きさだけが優しさではない。ピンピンしてるのに必要もない手術をして入院してきっちりお金も得している層だっており、入院患者=辛い状況、は必ずしも成立しない。辛い状況の代表例としては不適切と思われる。

電話を取るのも恐ろしいという職場あるある、果たして全員が理解を示せるでしょうか。できないことがあるということは、あるいはかつてできなかったことがあるということは、優しさの源流とも言える部分。ひとそれぞれ苦手は違うんだから、そりゃ「多数派」に属する方が優しさを示し易いし感じ易い。

「出されたハッピーターンとお茶に恐怖を感じた」とは僕の過去記事の一節ですが、これをギャグではなく恐怖体験だと理解できる層も一定数いる。その上で優しさを示せるのはやはり一握りだ。「ただのおもてなしでしょ?」と捉える層には不可能な優しさだ。

まあ気遣いに見せかけてマウント&嫌がらせをしている層も多いので厳密に言えば必ずしもすれ違いではないんでしょうけど。一人にすることが優しさだと、痴漢する人だって基本わかってるわけじゃないですか。空いている電車でわざわざ隣に座るみたいなもん。「オレが来た」が優しさだと強く確信できる層がこの世にはいる。その優しさ・気遣いは陰キャには出しづらい。そういった話の発展系なのかもしれませんね。

僕の存在そのものが優しさだと。状況を限定しても、そんな体験ができると良いのですが。いや。せめて構成要素の半分程度にしておきましょう‥!

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