記憶すら曖昧になっても確かなもの‥。それが”愛”で何か不都合でも‥?

以前に、「精神障害者の方がよくわかる表現が使われていることがある」とコンテンツの感想で書いたことがありますが、「同じじゃねぇからな!」したい人が多く、確かに僕も明確に「いわゆる恵まれし人が受けるある種のサービスか何かと一緒にされるのは嫌」と思っています。僕のは単に障害だし、ハードルだし、デバフにしかなっていないからです。僕の方こそむしろ一緒にされたくない感はある。

それはともかく、当ブログに関して実はバックアップもろくに取っていないのが主義として一貫している部分です。なぜなら僕は写真もほとんど残しておかないし、それと同じ理由で自分の過去に書いたものなど将来の自分で別に上書きしていきたいと思っているので。自分が自分である限り、別に新しいものを自分で書ける。旧い記憶の完全保持だけが自分の証明では決してない。

しかし思考回路がその影響で変わったのであれば、例えある種のバージョンアップの如く「改善」だとしても、僕は「ブログ消す」を選ぶこともある。とはいえ「消せば増える理論」が適用され、むしろ魚拓班が活性化することにより乗っ取りチャンスすら与えてしまうことになり変えないので、そうなるとさすがにSNS調査の際に転職活動にすら差し障ってくる。己が何者でもないとしても、己を他人に偽られるのは非常に悔しい。ケツの穴まで恥ずかしくない人間だとは思っていないものの、自分は自分として認識されたいので‥。

違って結構。何者でもなくて結構。そんなことより言論の自由を。基本的人権を。生命として生きる権利を。何が犯罪に当たるか‥。快不快だけなのか。どんな切り抜きをされようとも、ケツの中から潔癖に磨いていかなければならないのか‥!

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