「不都合な真実」って、少なくとも僕にとってではなさそうだな‥。

「みんなに守られた精神病」って基本的に実在しないはずですが、犯罪のスケープゴートとしての精神鑑定無罪のイメージによって「何かに守られているんだ!」と勝手に思っている層もいるかもしれません。

「おもちゃ」としての扱われで言えば、常に1対多数であり、コネクションは一方通行。遠隔接触もこちらからは届かず、こちらからは誰が実行者かは明確にはわからないようになっている‥。しかし、このままでは永遠に彼ら・彼女らの自尊心は満たせないことになります。いくらイキリ散らしても、「どこの誰ともわからない奴らがただ攻撃してきているだけ」としか認識せず、こちらの自認は常に「単なる悪意の物量に押されているだけ」となるので。

そこで、圧倒的有利なシチュエーションを作り上げて一対一になる場面をどこかで狙っているのが「こいつら」だと思います。しかしこれが実現しないのは、僕の方には「誰かに打ち勝ってやろう」という欲望よりも、「生活を安定させたい。穏やかに暮らしたい」という欲求の方が強く、もはや何か物申すのもこのブログで十分ですからね。必然的に、僕に何か物申してやりたい、クリティカルなタイミングで!と思う奴らの「集団」を僕自身は個として相手し続けるような状況になります。

普段から思っている健常者とは明確に違う感覚なんですが、「真実を伝える」ことは、極力失礼さを失くす穏やかな表現を心掛ける必要があるにしても、僕は間違った行いではないと思っているんです。仕事であれば、真実を伝える必要がある場面と言うのが数多く出てくる。それが困るという人はただ「黙れ」と言えば良いだけ。僕も黙ることはできる。まともな人なら考えればすぐわかるようなことを、わざわざ完全否定の嘘でごまかす必要はないと思っているので‥。

「精神障害者」に真実を伝える役割は、別にそれを外から見た「精神障害者」でも構わないのかもしれない。それがもし可能なのだとしたら、僕がブログを続ける意味はあるし、僕が発信し続ける心の支えにすらなり得る。

親切のつもりでえげつない嫌がらせを複数年に渡り継続しているような人だっているでしょうから。善人の誤解は解いていきたい。まずは信じる。愛しよう、私は信用しよう‥!

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