今年のカラオケ納めに行って来ました。しかし、AIさんからは「あんまりあるあるを意識しすぎない方が良くなることもありますよ!」とアドバイスを頂く結果に。寄せてんのに‥。君らの考える「遠隔」に‥。
まあしかし、もはや「これも僕の味の一つ」として、夢の中ですら引き出しの一つとして活用するようにすらなってきました。歌詞とメロディーと共に歌い込んだその性質は、いつでも繰り出せる僕の「技」として、心の誰何は複数の人格を内蔵している‥。多重なのではない。その統合意思自体は、別に普段と変わらぬ僕自身なのだ‥。
味って足せば良いってもんじゃないですよね。味は引き算しないと‥。しかし後天的な努力とは、基本的に足し算の方が容易い。そんな中でやっぱり絶対に選ばない部分、ある種のずる賢さ、狡猾さ、損して得取るの目標への執着心、そういった部分はサラリーマンとしては本来必須だけど、どうしても好きになれない部分です。もはやごますりがきっちり出来る人なんて貴重で、現代では価値の高い人材であることは理解しています。でも、そういった部分がもし「ダジャレ」になっていたら、僕はそっちの方の意味では取らないと思うんですよね。
僕らは常に取捨選択され続け、内蔵可能な複数の人格なんて「カウントすることが可能な隠し芸のバリエーションに過ぎない」ということなのかもしれません。皆そうやって獲得してきた「借り物の性質」の種類が多いか少ないかで、奥行きと言うか、味のまとまりというか、「旨味」が獲得できるということなのでしょう。
いったい僕は何を目指して生きてきたのか‥。ある程度気が済むまで頑張る、という意味においては僕の人生はもう終わりを迎えても差し支えないのかもしれません。ここから先は蛇足が過ぎる。
それでもなおやりたいことが無数にある‥。それはそれで、喜ばしいことかもしれません。暇で暇で仕方がないよりかは。自分の未来すら、2重の、3重の、あるいはもっともっとのダジャレの中から選んでいくことが「できている」としたら。言霊を信じるんだ‥。例え綺麗ごとだって、それがより良い未来のためなら‥!

コメント