冷静に計算すると、障害年金で暮らせなくはないな‥と考える。しかし、社会的な繋がりが完全になくなったとき、なんの生産性も残っていない金食い虫を保護する必要があるか?といえば、「ない」ですね。いつから助けてもらえると錯覚していた‥?「死んでも良い存在です」の宣言となる。前提として、多少でも繋がりがあるなら別ですが。
親の介護をする人間だって、初めは善意だったはず。いつしか、それが当たり前になっていくと、不平不満も溜まっていく。関係が悪化すれば、「愛」が前提だった助け合いに破綻が生じる。そしてその悪意は、周囲の弱者にも向けられていく‥。負の連鎖が止まらないッ‥!
障害者の差別をするのは、一度は支援を試みた人であったり、実際に障害者からの被害を受けた人であったり。LGBTもそうです。異性愛者ですら「ただ愛すること」が犯罪に成り得るのですから、LGBTは高確率で性加害に成り得る。否定派は多かれ少なかれ、「性加害」に自分か周囲があっているはず。(Bと一緒にするな説はあると思います。僕もそう思います。)
援助してもらう側の立場から言えば、「もはや悪意を隠そうともしない」状態で助けられても、むしろ加害に感じるだけです。いっそ実際に加害してくれればもっと助かる制度もあるかもしれないのに、あくまで形の上では善意。「なぜ助けているのに恨まれるのか」みたいに呟いていた人が過去にいましたが、単に向けた悪意の量がそれを上回ったに過ぎないのでは‥という感想。いや、実情はどうだったか知りませんけどね‥。
まあ、わかるんです。「悪意の捌け口」としてしか存在価値がない程度に落ちぶれてしまったのだと。中学生くらいまでは健常者としてやっていたのに‥。僕の人生のピークは3歳でしたね。これは冗談ではなく。
椅子取りゲームを永遠に続けるより、高性能な椅子でも作った方が早いのではないでしょうか。生産性がないのは、果たしてどちらなのでしょうかね‥。やられ役ならばやってやる。今回は、僕が勝ててしまうかもしれませんがね‥!